紫電改など旧海軍戦闘機エースパイロット、上越市出身の杉田庄一の書籍出版へ CFで支援募る
太平洋戦争末期の旧日本海軍の戦闘機「紫電改」などに搭乗したエースパイロットで、20歳で戦死した新潟県上越市浦川原区出身の杉田庄一(1924〜1945)の生涯をまとめた書籍の出版に向け、関係者がクラウドファンディングで支援を募っている。2024年は杉田の生誕100年に当たり、書籍出版のほか、6月30日には上越市市民プラザ(土橋)で記念式典や講演会、パネル展が開催される。
エースパイロット杉田庄一とは
杉田は旧安塚村(現上越市浦川原区小蒲生田)に生まれた。15歳で海軍に志願して少年航空兵となり、予科連を経て戦闘機搭乗員となる。太平洋戦争でパプアニューギニア・ラバウルなどの空戦に出撃し、優秀な搭乗員として18歳だった1943年(昭和18年)4月18日、前線視察に向かう山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機の護衛機を務めるが、長官機は日本軍の暗号を解読し待ち伏せしていた米軍戦闘機にブーゲンビル島上空で撃墜され、山本は戦死した。
杉田はその後もペリリュー、フィリピンなど激戦地での出撃を重ね、戦争末期には本土防衛のため精鋭搭乗員を集めた第343海軍航空隊(343空、愛媛県松山市)に所属し、「零戦」に代わる最新鋭戦闘機紫電改に搭乗。1945年4月15日、343空が転出した鹿児島県鹿屋基地で敵機来襲を受けた離陸直後に被弾し20歳で戦死した。最終階級は海軍少尉。公式撃墜数は個人撃墜70機、協同撃墜40機を数え、「空中戦の神様」と呼ばれた。米スミソニアン航空宇宙博物館では、第2次世界大戦中の世界のエースパイロット10人のうちの1人として紹介されている。
部下に慕われた杉田
2020年4月に杉田の親族や上越市民有志が「杉田庄一の実績を伝承する会」(杉田欣一会長)を結成。浦川原区小蒲生田の生家跡に顕彰碑を建立し、講演会を開催するなどして活動している。クラウドファンディングは、顧問で今回の書籍化を手がける元上越教育大教授の石野正彦さん(69)が伝承する会から委託を受けて実施している。
石野さんは、杉田のエースパイロットとしての技量だけでなく、厳しい制裁が常識の階級社会の海軍で部下をほとんど殴らず、時には上官に歯向かったという人柄を評価する。戦闘機の操縦でも、精神論ではなく部下を守り育てるための実践を基にした編隊空戦を徹底的に教え込んだという。
口ぐせは「俺の愛する列機来い」で、多くの部下に慕われた。戦後、343空の元隊員や遺族が手記を寄せた「三四三空隊誌」には、元部下が杉田について「誰からもこよなく愛され頼られた」「今日命あるのも杉田兵曹の列機になれたこと」などとつづっている。
343空があった松山では、杉田らが懇意にしていたすき焼き屋の若女将が、搭乗機の紫電改にちなんで白無垢を紫色に染めてマフラーを作り、杉田の提案で「ニッコリ笑えば必ず堕(お)とす」とししゅうして搭乗員らに贈ったというエピソードもある。
石野さんは大学教員時代に杉田について調べ始め、「指導していた学生と同じ年頃だと考えると、戦時中の19、20歳の人間の考えや行動に自然と思いが募った」と語る。「当時の若者たちは戦争を終わらせるため、次の平和な世の中を作ろうと戦っていたと思うが、80年たった今でも、世界で平和な時代が築けていないことへの悔しさや、死んでいった若者に申し訳ないという思いがある。戦争のことを調べ、知ることでそういう気持ちになった。上越市や地元の浦川原の皆さんに杉田のことを知ってほしい」と話している。
クラウドファンディング目標額150万円
クラウドファンディングは6月15日までで、目標金額は150万円。秋に出版予定の書籍「杉田庄一の太平洋戦争」(予定価格2800円)の経費補助や、生誕100年記念式典とパネル展開催費などに充てる。リターンは出版した書籍、ポストカード、顕彰碑の案内などとなっている。
顕彰碑の場所
記事参照元:上越タウンジャーナル