南海の「楽園」守った思い 故郷に上越に帰郷の吉田さん 「自然塾」開く

西太平洋に浮かぶ360度をサンゴ礁に囲まれた「ジープ島」。新潟県上越市高田地区出身の吉田宏司さん(65)が開拓し、「楽園」として広く知られるようになった。吉田さんは40歳のとき、南海の孤島に単身移住。島の保全に力を尽くし、世界のダイバーたちに愛される環境を作り上げた。「開島者」は数十年ぶりにふるさとに戻り、人と自然の共存の在り方を模索している。(上越支社・川島薫)

ジープ島は外周110メートルの小島。607の島々と環礁から構成されるミクロネシア連邦の一部だ。周囲に広がる「チューク環礁」はかつて、日本の委任統治領のトラック環礁と呼ばれ、連合艦隊の一大拠点として知られていた。島の周囲には今も、撃沈された日本海軍の船が多く残る。

 吉田さんは高田地区の本町出身。学校を抜け出して金谷山で遊ぶほど、自然が好きだった。大学進学を機に上京し、経営を学んだ。卒業後は自ら開発会社を起こし、趣味でダイビングクラブを主宰。仲間と一緒に世界中の海を渡り歩いた。

吉田さんがチューク環礁を訪れたのは1989年。「初めは戦争の跡が残る海に潜る気はしなかった」。クラブのメンバーに請われ仕方なく向かった。

現地で出会ったのが、小さなダイビングショップを営んでいたキミオ・アイセックさん(故人)。

吉田さんは、親日家で流ちょうな日本語を話せるアイセックさんと交友を深めた。穏やかな人柄にも引かれ、日本のダイバーたちを次々と紹介した。

チューク環礁には紺碧(こんぺき)の海が広がり、サンゴ礁には色とりどりの魚が生息。運が良ければイルカと一緒に泳ぐこともでき、ダイバーたちは「楽園」と呼んだ。

ただ、吉田さんは行き来するうちに、楽園の現実も知った。当時ジープ島の周辺では、海に爆薬を投げ込んで魚を捕る「ダイナマイト漁」が行われ、島の周囲にあるサンゴ礁の4分の3が破壊されてしまっていた。

「楽園を守ることはできないか」。吉田さんの思いは募った。

アイセックさんから「日本人ダイバーを紹介してもらったお礼を何かさせてほしい」と申し出を受けたとき、即答した。「ジープ島を買ってほしい」

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リゾートホテル経営に乗り出し、現地で指折りの資産家だったアイセックさんは96年、日本円に換算して250万円(当時)で、元のオーナーから島を購入した。

「島を買っておいたからいつでもおいで」。アイセックさんから連絡を受けた吉田さんは、1年かけて身辺を整理。島での暮らしに慣れるため1週間の断食を試すなど「訓練」も重ねた。「石の上にも3年。大変でもせめて3年は島で暮らそう」。40歳の決断だった。

だが、島にあったのは、ダイバーの休憩用に建てられた屋根だけの小屋。覚悟はしていたが、無人島生活は過酷だった。

雨風に当たりながら眠り、食料は20キロ近く離れた本島に、船で買い出しに行った。1年目で15キロ痩せた。風土病で下半身から血と膿(うみ)が出て、一時は歩行も困難になった。

それでも、島の「管理人」として、訪れるダイバーのガイドで収入を得ながら、サンゴが壊された海域に小さなサンゴを植え付けていった。

ヤシを植え、コテージを建て、一日中美しい空を眺めながら過ごすことができるようにした。一方で、環境を保つために1年のうち計1カ月は、来島者を受け付けない「島休め」とした。

自身も生活の拠点を本島に移し、島の管理をしながら観光事業も軌道に乗せた。「ようやく目的を達成できた」。サンゴ礁が全て復活したころ、移住から12年がたっていた。

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世界的大流行となった新型コロナウイルスの影響で、観光客を受け入れられなくなったこともあり、吉田さんは2020年、上越に帰ってきた。

「海も山も滝もある。世界で見ても、一つのエリアに自然が全て詰まっている希少な土地だ」。アフターコロナを見据え、上越地域を日本の代表的な観光地にしたいという思いがある。

そのためにも、ジープ島のように環境保護と観光をどう両立させるか、方法を考えている。妙高市で「吉田自然塾」と銘打ち、たき火やキャンプなどを通して、観光客に自然の中での遊び方を教えている。

「自然を楽しむようになれば、自然を守る心も育まれる」と吉田さん。今度は「ふるさと」という楽園を守るつもりだ。

記事参照元:新潟日報モア

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