永井龍雲さんにインタビュー! 4月16日に高田世界館でライブ

シンガーソングライターの永井龍雲さんが2023年3月9日、デビュー45周年を記念したアルバム「沸点」の発売を記念したコンサートツアーのプロモーションで新潟県上越市を訪れた。上越市でのステージは5年ぶりで、4月16日午後4時30分から高田世界館で開かれる。

永井龍雲さんは1957年、福岡生まれ。1978年にシングル「想い」でデビューし、翌年リリースした「道標ない旅」はチョコレートのCMソングに採用され、大ヒットした。1989年には五木ひろしの「暖簾」の作詞・作曲を担当するなど、多くのアーティストに作品を提供している。

上越市では1980年前後に開かれた計4回のコンサートで、上越文化会館大ホールを満席にした。近年は主に高田世界館を会場にコンサートを行っている。コロナ禍の影響で、上越市でのステージは5年ぶり。

開場は午後4時、開演は同4時30分。全席自由6000円。上越文化会館、高田世界館、二葉楽器のほか、チケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、エンタメスタイルで発売中。

インタビューは次の通り(最後に永井龍雲さんからの動画メッセージあり)。

永井龍雲インタビュー

4月16日に高田世界館で行うコンサートを前に、自身の曲作りや人生などを話す永井龍雲さん(2023年3月9日)

――まずは、デビュー45周年おめでとうございます。

永井 ありがとうございます。

――昔の曲から新アルバム「沸点」までざっと聴いてみました。60歳のときにデビュー40周年のシングル「顧みて」を発売し“原点復帰”をうたいましたが、今回の「沸点」でも永井龍雲の原点は何も変わっていないと感じるのですが。

永井 2枚目のアルバム「発熱」(1979年)というタイトルにひっかけようとしたんです。自分の実感として65年を生きてきて、音楽でもそうですが、トータルの人生として今がピークじゃないかなと。才能とか健康とかじゃなくて、喜びも悲しみもそこそこ味わって、今が一番穏やかな気持ちで生きているんじゃないかな。自分にとって音楽的にも人生的にも、精神的に「沸点」という状況じゃないかなって思ったんです。

――1980年前後の数年間は、上越文化会館で4回のコンサートをやって、満員にしているんですね。その頃の歌声と今を比べて、声の質が少し太くなったのと、ビブラートをかける歌い方が加わったのかなと思うんですが。

永井 声の太さっていうか、質は変わってると思うんですね。若いときはふわふわ感があったんです。お酒を飲むせいもあるかもしれないけれど、声質は変わっていると思うんです。ただキーは逆に昔より高いのが出てるんですよ。自分の中では昔の感じで歌っているんですけれど。ただビブラートはね。若い時から音楽の勉強をやってるわけじゃないので、その時の感情で歌ってるので、その時々の問題だと思うんです。

――でも、永井龍雲が歌う世界っていうのは、デビュー曲の「想い」の頃から全然変わってないですね。

永井 そうですね。孤独感であったり、悲しみというか、その辺がデビューした時から今に至るまで自分のテーマです。そういう状況にいる人たちの気持ちを救ってあげたいっていうか、また自分自身もそれを歌うことによって救われたいっていうのがずっとありました。サウンド的にはいろいろなことを試していますけど、基本的に歌作りの言葉を探すときの姿勢は変わっていないと思いますね。

――ラブソングっていうと、例えば女の人に対し「君はきれいだ」「愛してる」っていう歌が多いんですけど、龍雲さんのラブソングは、「会えなくて切ない」というか、万葉集の和歌の世界を感じるんですが。

永井 そう言っていただけるとうれしいですけど、人間の不条理感とか、言葉にできない気持ちとかあるじゃないですか。そういうのを歌にしたいっていうのがずっとあったんです。そのもどかしさは歌だとメロディーがつくし、僕の声をのせればその情感っていうのは作れるんです。だから単純にハッピーな歌だとか直截的な曲よりも、ちょっとその辺の切なさを表現できた時が“やった感”はありますね。

――龍雲さんが作詞・作曲をしたり、歌うようになったのは、やはり当時の岡林信康、吉田拓郎、井上陽水とか、ボブ・ディランとかの影響を受けているんですか。

永井 僕がやり始めた時のフォーク時代に岡林さんの「山谷ブルース」を聴いて、その後、拓郎、陽水などを聴いたんですけど、洋楽はあまり聴かず、ボブ・ディランもデビューしてからですね。サイモン&ガーファンクルは、中学、高校ぐらいで聴いてますけどね。あとはグループ・サウンズや歌謡曲ですね。ジャンルに関係なく聴いていた気がします。

――今回の「沸点」の中に「風がすべてを」という反戦の曲がありますけれど、4月に81歳で来日公演するボブ・ディランの「風に吹かれて」をリスペクトした曲ですか。

永井 そういう意識は全然ないですね。もう23年沖縄に住んでるんですけど、「平和の礎(いしじ)」という(沖縄戦で)亡くなった方の名前を刻んだ記念碑があり、毎年イベントがあるんです。ここ何年間、戦争が起きたり、右傾化するなど、時代の閉塞感を感じていました。(沖縄戦の)悲しみが忘れられ、そういう時代に突入している危惧感を感じたんです。「戦争を2度と起こすまい」というのは、どこに行ったんだということをみんなに気づいてほしかったんです。

――近年は、高田世界館で4回ほどコンサートをやっていますね。今回、高田瞽女を歌った「瞽女哀歌」を披露していただけるようですが、瞽女を曲にした経緯を教えてください。

永井 前回の5年前に来た時に作って持ってきた曲だと思うんです。瞽女さんのことは昔、母に聴いていた気がします。母は晩年、目が悪く、一人で動けないような体でした。母は奄美大島出身ですから、歌とか芸事が好きなんですね。母から目が見えなくても歌を歌って旅してる人がいるんだという話を聞いたことがあって、いつか母の供養のためにもそういう歌を作りたいと思ったんですよ。僕がデビューして2年目に「お遍路」という曲を作りました。四国のお遍路さんのことをテーマに作った歌なんですけど、父や母を重ねてその人生を歌うような気持ちがありました。その一環で母が言っていた瞽女さんをテーマに作ってみようと思いました。これまで高田に何回か来て、瞽女さんが歩いた雁木の町並みを見てイメージが固まった感じです。

――ほかに上越の町の印象はいかがですか。

永井 僕は文学が好きだったんですけど、そういう香りのする町だなという感じがしますね。この間も北海道の知床へ行った時に急に曲ができたこともあります。こういったご当地ソングが何曲かあるんですけど、上越の町には僕の感性に近いインスピレーションを感じさせてくれるものがありました。

――松任谷由実さんがデビュー50周年を迎えましたが、龍雲さんも次は50周年ですね。

永井 全然へっちゃらだという元気な先輩たちでいっぱいですけど、昔から思えば65歳とか70歳なんて考えられないですからね。これからは70歳まで一年一年、やっていけばいいのかなと思っています。

――コンサートを楽しみにさせていただきます。どうもありがとうございました。

↓永井龍雲さんからのメッセージ(38秒)

記事参照元:上越タウンジャーナル

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