【独自】石油の匂いのする人がモテる? 実は新潟県上越市にあった日本初の油田

当時の玄藤寺油田の様子(新潟県上越市提供)

 

かつてはエネルギー王国だった新潟県上越市

一般的にはあまり知られていないが、実は新潟県上越市にかつて日本最初期の油田が存在したのだ。新潟県内では、旧新津市(現新潟市秋葉区)が油田の街としての知名度があるが、実は上越市には地域一帯に頸城油田と呼ばれる油田がかつてあり、日本初の石油パイプラインも建設された場所でもあるのだ。かつて上越市はエネルギー王国だったわけだ。これらの歴史について、上越市立歴史博物館の花岡公貴(こうき)統括学芸員に話を聞いた。

江戸時代になると、燃える水は草生水(くそうず)として、古文書などに登場するようになる。ちなみに、記者の上越市の実家の集落には昔ながらの屋号が残っており、昔油屋だったという「くそうず屋」という屋号の家がある。

板倉区の達野・筒方(どうがた)一帯では江戸時代の中ごろから農民が掘り、灯火に使ったほか、薬としても流通した。髙田藩に税が納められた。

 

日本最初期の油田は玄藤寺油田

この達野に隣接する日本最初期の油田の名は玄藤寺(げんどうじ)油田という。上越市の清里区と板倉区にまたがる油田である。明治時代初期に採掘が始まった油田で、上越地域一帯にあった頸城油田の中の初期ものだ。

「一般的に、江戸時代は灯火としてなたね油やろうそくを使っていたが、値段が高かった。越後の産油地の近くでは値段が安いくそうず(石油)が使われた。しかし、においがすることや火事になりやすいなどのデメリットもあった。江戸時代の古文書には、たくさんの井戸が掘られ、くそうずが採られ流通していたことが書かれている」(花岡統括学芸員)。

上越市立歴史博物館の花岡公貴統括学芸員

また、花岡統括学芸員はこう話す。

「明治時代になると西洋からランプが入ってきた。そうなると、日本中で石油が使われることになり、需要が増え生産量も何倍にも跳ね上がった。しかし、井戸を深く掘るとガスが出るので何人も死者がでた。10人くらいで踏んで井戸の深くに空気を送る「たたら」を使い始めると、さらに深く掘れるようになった。江戸時代の終わりには、100メートル以上を手掘りで掘る最先端の技術が玄藤寺油田にはあった」。

玄藤寺油田の最盛期は明治10年ころ。当時は500本近い井戸があった。ここに、当時から伝わる逸話がある。あまりにも井戸が多かったため、井戸の底に掘り子が下りると、隣の井戸の人間と話ができるというものだ。

花岡統括学芸員は「実際にはできるわけがないんですが、それだけ井戸の密度が高かったということです。笑い話ですが」と語る。

 

明治天皇ゆかりの日本初の石油パイプライン

明治12年、日本初の石油パイプラインができた。上深沢(清里区)の地主の笠尾惣治が貢献したものだ。これは、明治天皇が北陸地方を巡幸した際、石油掘削機械の模型に目がとまり、随行していた明治政府の高官が玄藤寺油田を視察し、パイプラインの敷設を提案し政府の協力を約束した。パイプラインは、玄藤寺油田から麓まで全長2.2キロメートルあった。最盛期、玄藤寺油田には2000人を超える人が住み、様々な店舗が立ち並んだ。しかし、明治10年から20年にかけて、生産量が減少することになる。

「明治30年代には牧区で大噴油がありましたが、大正、昭和になると、石油がだんだん採れなくなってきて、吉川区、頸城区などの平野部で石油・ガスが掘られるようになる。戦後になると、大潟区の海中でガスの採掘が行われた。その副産物が今の鵜の浜温泉です」
(花岡統括学芸員)。

花岡統括学芸員は、「平成21年に上越の石油産業史の展覧会を開催している。好評だったので近いうちにまた展覧会をやりたいと思っている」と話していた。

 

石油の匂いのする人がモテる?

かつて上越市高田の歓楽街でも「石油の匂いのする人がモテる」と言われるほど、オイルマネーを享受した上越市の近代史。今は油田地帯はひっそりとしているが、株式会社INPEXの東京パイプラインは、今も新潟の天然ガスを東京に供給し続けている。新潟県のエネルギー王国ぶりは今も変わらないようだ。

当時の油田の様子の模型(上越市立歴史博物館)

 

(文・梅川康輝)

記事参照元:NIIKEI

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