タイタニック号に乗った唯一の日本人は新潟県上越市出身だった! 孫はYMOの細野晴臣さん
氷山にぶつかり、沈没したタイタニック号
1912年4月14日、処女航海の途中であったタイタニック号が氷山と衝突し、翌15日に北大西洋の藻屑となった。このときの犠牲者は1,500人以上といわれ、その悲劇は、世界中のメディアによって取り上げられ、後に小説や映画の題材としても扱われた。この事故をきっかけとして「海上における人命の安全のための国際条約」(SOLAS)が締結されることにもなった。
日本人で唯一生き残った人物はYMOの細野晴臣さんの祖父
このタイタニック号の乗客の中で、日本人で唯一生き残った人物がいる。新潟県上越市の出身で、当時鉄道官僚として、1年間ロシアで鉄道研究をしていた細野正文氏である。先頃亡くなった坂本龍一さんも加盟した、日本の音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーでもある細野晴臣さんの祖父でもある。
事故当時、正文氏は、鉄道院在外研究員としてサンクトペテルブルク留学を終え、イギリスから日本への帰路へ向かう途中だった。事故当時の様子を、自身の手記に詳細に書き残している。それらの記録から、当時の船内の騒然とした様子が鮮明に想像できる。
彼是一時近キ頃ト思フ時分スサマジキ爆声起ルコト三四回ナルヤト思フ間モナク屹然タル大船ハ非常ノ音ヲナシテ全ク其姿ヲ没シ今、目前ニアリト見シモノモ影モナシ、実ニ有為転変ノ世ノ中哉。沈ミシ後ニハ溺死セントシツツアル人々ノ叫声実ニモノスゴク、ボート内ニハ其夫父等ヲ案ジツツアル婦人連ノ泣ク声亦盛ニテ鳴呼自分モ何ウナルコトカト思フ時ハ気モ心モ沈ミシ心地ナリシ。
(『ナショナル ジオグラフィック日本版』2012年4月号より一部抜粋)
当時、正文氏が生還した経緯については、1912年に出版された『冒険世界』や同時期に半ばまで連載されていた『工業』所収の「大西洋上に於ける私の遭難顛末」に詳しい。それらは全て正文氏自身の手によって語られたものである。
タイタニックの男性乗客で生き残ったのは146人(全体の18%)だったが、その中には正文氏と同じように、ボートに飛び乗って助かった人も多かった。女性と児童が優先、残った男性は1等船客が優先された。そのためか、正文氏と同じ二等船客の男性生還者はわずか14人(全体の8%)と飛びぬけて少なかったという。
誤解され、悪者の日本人にされた細野正文氏
一方、正文氏が帰国して少し経った頃に、ローレンス・ビーズリーというタイタニック号の船員が『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』という本を出版した。その記事の中に、「他人を押しのけて救命ボートに乗った嫌な日本人がいた」という記述があった。
正文氏がタイタニックに乗った唯一の日本人だったこともあり、この「嫌な日本人」だとされてしまい、事実関係の検証がないまま、この一文のみが独り歩きしたような形となって世間に流布してしまった。
当時、タイタニックで救命ボートに乗らずに死んだ男性は「極限状態でもレディーファーストを貫いた」として美談にされた反面、生き残った男性は卑怯者扱いされるような風潮が続いていた。実際に、タイタニック号の船主だったブルース・イズメイらも生還したことが理由で非難されている。
日本でも、1916年に出版された『義勇青年』誌上などで、新渡戸稲造などが、正文氏の避難を揶揄するような文言を残している。
事態を気にした鉄道院は正文氏を副参事から嘱託に格下げとし、沈没事故の翌年に細野氏は政府高官の役職まで失ってしまった。
遭難後、救命ボートで救出され無事日本へと帰国した正文氏に対して、女性や子供優先の避難ルールがあったにもかかわらず男でありながら生き延びたことを批判する声や「他人を押しのけて助かった」などと事実無根の誹謗中傷まで発生する様は、今でいう「炎上案件」そのものである。
現代の感覚をして、当時のメディア人に押し付ける気は毛頭ないが、当時のメディアやジャーナリストたちは、しっかりと事実検証すべきではなかったか。同じメディア人として襟を正される思いがする。
正文氏はそうした批判の声に対して最後まで沈黙を護り、何ら反論することもないまま1939年3月、68歳で鬼籍に入った。
正文氏の子息である日出男氏は1980年、正文氏の手記を『サンデー毎日』紙面にて、初めて公開することに踏み切ったのである。
何トナク凄愴ヲ感ズ。船客ハ流石ニ一人トシテ叫ブモノモナク皆落付キ居レルハ感ズベシ。ボートニハ婦人連ヲ最先ニ乗ス。其数多キ故右舷ノボート四隻ハ婦人丈ニテ満員ニ形ナリ。其間男子モ乗ラントアセルモノ多数ナリシモ、船員之ヲ拒ミ短銃ヲ擬ス。此時船ハ四十五度ニ傾キツツアリ。
是後ボートモ乗セ終リ既ニ下ルコト数尺、時ニ指揮員人数ヲ数ヘ今二人ト叫ブ其声ト共ニ一男子飛ビ込ム。余ハ最早船ト運命ヲ共ニスルノ外ナク最愛ノ妻子ヲ見ルコトモ出来ザルコトカト覚悟シツツ凄想ノ思ヒニ耽リシニ今一人ノ飛ブヲ見テ責メテ此ノ機ニテモト短銃モ打ルル覚悟ニテ数尺ノ下ナル船ニ飛ビ込ム。
(『ナショナル ジオグラフィック日本版』2012年4月号より一部抜粋)
口髭でアルメニア人と誤認され、中国人を正文氏と勘違い
そして、タイニック号沈没から85年後の1997年、日出男氏らの徹底した調査により真実が明らかにされ、正文氏の潔白が証明された。
日出男氏は、正文氏の手記や他の乗客の搭乗記録等を照らし合わせ、ビーズリーと正文氏は別の救命ボートに乗っていたことを指摘した。その調査によれば、正文氏が乗り込んだ救命ボート(10号ボート)には「アルメニア人男性と女性しか乗っていなかった」とされていたという。
事故当時、正文氏は口髭をはやしていたため、日本人ではなくアルメニア人と誤認されてしまった。一方、ビーズリーの記憶していた13号ボートには中国人が乗っていたことが判明し、ビーズリーはこの中国人を正文氏と勘違いした可能性が高いということも明らかになった。
当時の西洋人にとって、中国人と日本人の区別をするのは難しく、また日露戦争後急速に国際社会に影響を与えつつあった日本に対してよくない感情もあったのかもしれない。そういった想いや勘違いが錯綜して、ビーズリーの誤解などと結びついたことも考えられる。
もう一度発信する側・伝える側の責務を考えていくべき
タイタニック号の事故発生から100年以上が経過した現在、通信技術が成熟を迎え、誰でもSNSなどで、簡単に情報発信できるようになった。
今まで以上に情報の出どころや信頼性が重視されるようになってきた一方で、根も葉もないデマが意図的に流され、悪意ある誹謗中傷によって個人が命を落としたり、店舗や企業が営業停止に追い込まれてしまったりといったケースが現在まで続いている。
こんな時代だからこそ、正文氏の生還劇を通して、我々はもう一度発信する側・伝える側の責務を考えていくべきではないだろうか。
(文・湯本泰隆)
記事参照元:NIIKEI